22番札所:光明寺(通称:感満不動)

22番札所:光明寺(通称:感満不動)

ご詠歌

霊水の 水辺にうつりし 不動尊 頼む心も 澄みわたりけり

宗旨
真言宗智山派
御本尊
大日如来像 / 阿弥陀如来像 / 不動明王像 (県文化財) / 地蔵菩薩像
寺宝
勢至菩薩像 / 観音菩薩像
住所
〒329-1311
栃木県さくら市氏家2696

壮観!力感!露座のお不動さま

慈光寺をあとに、国道293号を南西に行くと、そこは氏家。街のほぼ中央に光明寺はある。
古い家並みにとけこんだ山門をはいると、すぐ右に鐘楼が孤高を装っているかのようにたたずむ。

 参道をまっすぐ進むと、正面に護摩堂があり、その上に、露座の不動明王像どっしりと座す。これこそがまさしく寺のシンボルであろう。 護摩堂を前に、目を左にやると、端正な“容姿”の本堂が堅固な構えを見せる。

光明寺の開基を平安末期とする記録もあるが、この辺の記録は伝承の域を出ない。寺歴がやや明確になってくるのは、室町中期以降からとみるべきだろう。
勝山城主・氏家氏と政権を交代した芳賀氏の菩提寺として、勝山城近くの美女木地内に「荒木山普門院光明寺」が創立されたのが応永三十四年(1427)。

22番札所:光明寺(通称:感満不動)

その後、戦国時代には那須家と交戦が絶えることなく、とくに、大永(1521~1527)、天文年間(1532~1554)には那須勢が氏家に乱入し、兵火のため寺社や民家はことごとく焦土と化してしまった。 激戦地であったことを物語るものとして、天文年間、敵将が光明寺の境内に逃げこみ、馬を捨てて自害し果てたので、山号を「馬捨山光明寺」とまで改めたといった逸話も残っている。
さらに、永禄二年(1559)にも光明寺焼失とあり、天正元年(1573)にも神社仏閣が焼打ちになった記録がある。

時はくだって、慶長二年(1597)、宇都宮氏一族の総没落によって、氏家諸城も廃城と化す。
氏家は江戸時代、宇都宮藩領となり、奥州街道の開通により、宿場町として栄えた。
光明寺も五行川のほとり、清水の湧く浄地に移して、山号を「冷水山光明寺」と改称。  だが、江戸時代にもたびたび火災に遭い、寺宝、諸記録はことごとく焼滅してしまった。

今日では、みごとに復興新築を成し遂げ、山号も冷水山から霊水山に変わっている。
きょうも、光明寺のシンボル・露座の不動明王像は、自然界の変化にもまったく動じない。 この像は、三十余年間にもわたる制作期間を要し、宝暦九年(1759)に完成した。 それを支えたのは、氏家の民衆に根ざした強い信仰心と心意気。
この像は、当時の様子を私たちに伝えようとしているのだろう。