11番札所:光恩寺(通称:赤岩不動尊)

11番札所:光恩寺(通称:赤岩不動尊)

ご詠歌

はちす葉の 露の垂る木を 白妙に 玉かと磨く 寺づくりかな

宗旨
高野山真言宗
御本尊
不動明王
寺宝
五種鈴 (国重文) / 阿弥陀三尊像 (県重文) / 地蔵板碑 (県重文) / 梵鐘 (町重文)  紺紙金銀泥大雲輪請雨経 / 奈良時代経巻断簡 その他
住所
〒370-0503
群馬県邑楽郡千代田町大字赤岩1041

古墳に抱かれ格式を守る

千代田町赤岩は板東太郎(利根川)をすぐ南に控える沃野で、その名の起こりも利根の洪水の際、上流より赤岩がよく打ち上げられる所として呼ばれる様になったものらしい。 この近隣は古来より繁栄した土地で、多数の古墳群が往時を物語る。 そのひとつ、堂山の古墳と共に光恩寺はある。

山門をくぐると紅葉や銀杏など花木に恵まれた境内が広がり、正面に本堂が静かに佇む。
この本堂には秘仏・本尊不動明王が安置されるが、正月及び春秋には御開帳祭典が行なわれ、お姿を拝観できる。
光恩寺の前身は寺伝によると、雄略帝が穴穂宮のために勅して全国に建立せられた九箇の伽藍のひとつだという。 推古天皇御代に仏舎利三粒が納められたり、帰化僧・恵観が来住したとも伝えられる。

弘仁五年(814)には弘法大師が諸国遊化の際この地に留まり再興開山、自作の木彫地蔵を安置されたと云われる。  地蔵院の院号はここより出るが、以来密教の道場として法燈を守り今日に至っている。
この間、地方豪族の氏寺としても栄え、一時は僧院十六坊、末寺三千余を擁したといわれる。 何度か兵火などで殿堂を失うが、その都度再建されているのは格式の故だろうか。
特に、元亨元年(1321)後醍醐天皇が源有国を勅使として宇都宮公綱(下野宇都宮城主)に命じ、殿堂を再建、七百貫の朱印を下賜せられているのは注目に値する。

なお、光恩寺の御詠歌「はちす葉の 露の垂る木を 白妙に 玉かと磨く 寺づくりかな」は後醍醐天皇の御作と伝えられている。

11番札所:光恩寺(通称:赤岩不動尊)

このように由緒ある寺院のため、寺宝もまた数多い。
文永八年(1271)造立の「地蔵菩薩画像板碑」や奈良時代経巻断簡などがそれであるが、特に名高いのが阿弥陀三尊像。  これらは、先に述べた堂山古墳(4~7世紀築造・前方後円墳)の南側に隣接する阿弥陀堂に安置される。
中尊の阿弥陀如来像は、総高2メートル40センチ、定朝様式の定印像。脇侍の観音・勢至立像はともに総高1メートル59センチの立派なもので、それぞれ観る者を感動させずにはおかない。
永享十二年(1440)結城合戦の際、当時の阿弥陀堂に火がかかったが、三尊は自ら難を逃れられた。
以来「焼出しの弥陀」とも呼ばれ、厚い信仰を受けている。

光恩寺の鐘楼は堂山古墳の円形部上にあり、古くより時を告げてきた。
境内に散在するあまたの堂宇を拝観しながら、その時の流れを感じ取るのもおもしろい。