6番札所:退魔寺(通称:茂呂不動)
広瀬川のほとり 城址に建つ寺
江戸時代、赤石藩の城下町として栄えた伊勢崎市。
学校制度のできる前、今日の小学校の前身とされる赤石学校が、この地にあったことからも、当時の繁栄ぶりがうかがえる。
今日では、商業、工業の発展にともない、新しい街づくりが着々と進められ、人口も急増中。 市街地の中心を流れる広瀬川沿い、ちょうど市の中心部に退魔寺はある。
「不動院」と称号が書いてある山門をくぐると、真正面に不動堂、その右に本堂がどっしりと建つ。 左に歩いて行くと墓地の奥に鐘楼がひっそりと構える。
退魔寺の誕生は南北朝時代。
応安四年(1371)、時の城主茂呂勘解由左衛門尉源義輝が、城内の光円坊を改め、香華院を創立。
弘法大師自作の不動明王を本尊とし、鶏足寺から道照禅師を迎え、開山の師と仰ぎ帰依したときが、その歴史の始まり。 後に、退魔寺と改称し本寺格となった。
伝えられるところによると、石田三成が伊勢崎を通ったとき、土橋(現在の光円橋)付近に、毎夜妖怪が現われ、そのため庶民が難渋していることを聞いた。 さっそく三成は、行動を起こし、この騒ぎを解決。そのために寺号を改め、また寺紋を石田氏の紋にした、とある。
その後、寛文三年(1663)回禄の災に遭う。が、同十年(1670)再建。さらに延命五年(1677)九月に不動堂十坪余りを建立。 本堂には大日如来を安置する。宝暦十年(1760)三月、庫裏を建設。そして寛政四年(1792)本堂を改築し、昭和63年、本堂屋根を改修、 平成7年、本堂・客殿改修改築、平成12年、庫裏改築、平成21年、不動堂・観音堂改修築、今日に至る。
この退魔寺には、興味をそそられる歴史がもうひとつある。
上杉謙信や武田信玄が活躍していた時代、全国至るところに城があった。退魔寺の建っている土地も当時、城だったらしい。
おそらく、波乱に満ちた戦国時代を生きぬくため、様々な歴史を刻んでいたことだろう。
それにしても、鐘楼から見おろす広瀬川は清々しい。市街地の喧騒を忘れさせてくれるようで、気持ちが良い。 ゆったりとした川の流れを見ていると、退魔寺の足跡が川面に映って見えるかのよう。
市街地を少し離れると、大小いくつかの工場が立ち並ぶ。
まさに、いまの伊勢崎を象徴しているかのようだ。 近代的都市に向けて邁進している姿も美しい。
しかし一方、古えの“良さ”を守り、今日に伝えていこうとする姿勢も貴重。退魔寺はまさに後者の代表といえる。