30番札所:不動尊院(通称:願満不動尊)
ご詠歌
人の世の 願いを満たす 不動尊 ここ江戸崎に 伝う護摩の火
宗旨 |
天台宗 |
御本尊 |
不動明王 (慈覚大師御作) |
寺宝 |
十一面観音菩薩 (恵心僧都御作) / 釈迦牟尼仏 (文珠・普賢両菩薩共) 仁王門及び仁王像 / 天海筆「東照大権現」神号軸 |
住所 |
〒300-0504 茨城県稲敷市江戸崎甲2617 |
名僧・天海僧正ゆかりの寺院
水郷で名高い潮来町を抜け、霞ヶ浦南岸を土浦方面へひた走ると、肥沃な田畑と広大な丘陵を抱えた町・江戸崎に至る。
不動尊院はこの町のほぼ中心部・江戸崎中学校に肩を並べる様に高台に鎮座している。
江戸時代には関東八ケ壇林の首座であったこの寺院も幾度かの盛衰をくり返したが、昭和47年に百年ぶりに本堂の再建が成り、今はその華々しい由緒に相応しく華麗な伽藍を誇っている。
承和三年(836)慈覚大師円仁により開山され、文明二年(1470)幸誉上人の中興で「不動院」として華ひらいた。しかし、先に述べた華々しい由緒とはこの後の事である。
天正十八年(1590)江戸崎城主・土岐治英が佐竹義宣と戦って滅び、中興後しばらく荒廃を続けていた不動院も大きく変わることとなる。
すなわち、新しく江戸崎城主となった芦名盛重が、翌天正十九年(1591)天海僧正を迎えて不動院を再興したのだ。
南光坊・智楽院・天海。その名は徳川家康の知恵袋として「黒衣の宰相」とまで呼ばれたことで、あまりにも有名である。家康の没後も秀忠・家光を補佐して幕政全般にわたり権勢を振っている。
慶長七年(1602)家康は佐竹・芦名両家を移封、江戸崎を幕府直轄地とし不動院に朱印地百五十石を与えた。
天海が不動院にあること前後17年、徳川家はこれを手厚く保護し、関東八ケ壇林筆頭、最高寺領八百石、十万石の格式をうけ、寺は隆盛をきわめた。
現在、不動尊院では「六算除け」のお札が入手でき、民間信仰としての人気も博しているが、この「六算繰出表」も実は天海僧正の作になるもの。
明治9年(1876)仁王門と不動堂を残し、本堂以下を焼失。以後百年は仮堂に本尊を安置する不遇の時が続いた。
しかし、類焼を免れた仁王門には、往時を彷彿とさせる仁王像が安置されている。松材の木心乾漆彩色像で、玉眼嵌入の丈六仏、関東最大の巨像である。
本尊も信長焼打ちまでは比叡山無動寺にあった、円仁作の不動明王及び両童子像というから、その霊験はあらたかといえる。
不動尊院に隣接している中学校への坂道付近が「風呂の下」と呼ばれるのも、かつて150人からの学僧がここで学んでいた証。
三百年の時を経た今、かつての大本堂跡で、時代を担う若人が勉学に励んでいる。