16番札所:華蔵寺(通称:梅沢不動)
梅花の香りが静寂をつつむ
正仙寺を出て、栃木・粕尾線(鍋山街道)をさらに北西に行き、出流街道に入ると、そこが梅沢。小高い山々に囲まれた田園地帯だ。 東電梅沢変電所の手前を左に入ると、華蔵寺につきあたる。
樹木の生い茂る山を背にした閑静なたたずまいを見せる寺院。参道からは梅並木越しに鍋山が威容を見せている。
華蔵寺は建仁二年(1202)、唐沢城主佐野安房守実綱によって建立された。
実綱は信仰心が篤く、源頼朝死亡の知らせを受けると、息子宗綱を鎌倉に送り、幕府への忠誠を誓うとともに、頼朝の冥福を祈るため寺を建立することにした。
ある日、実綱は唐沢山城から小曽戸板を通り不摩城へ向う途中、寺尾郷が一望できる頂で馬をとめ眼下を眺めていた。 その時実綱は、過ぎし日鎌倉八幡宮で行われた流鏑馬(やぶさめ)に参加しその技量を讃えられ、政子夫人より紅梅一枝をおくられたことを思いおこし、 「先の将軍の冥福を祈るための寺は、この山に建てよう」と決意。
その夜、不摩城に入った実綱は、城主木村氏に梅沢の地に寺を建立するよう命令。
木村氏は、梅沢村三竹に宗綱の名で寺を建立し、梅南に隣接している地なので紅白の梅を境内に植えた。
その後三百年を経て、一時廃塔されたが、大永三年(1523)に郷内戸矢子の不摩城主木村伊豆守により塔頭が再建された。
天正年間には、法印周応和上が醍醐より法流を相承して中興第一世となる。この時、門末十ヶ寺の中本寺となった。
第二世弘典法師は、日光大沢で徳川二代将軍秀忠の帰依(きえ)を得て、石高十石の朱印地をもらい受けた。この時の書状箱は、華蔵寺に現存している。
しかし文政十一年(1828)、山火事により廃虚と化す。幾度かの復興を試みたが成功せず、明治維新を迎えた頃、遂に末寺常徳、持宝の二ヶ寺を残して末門はことごとく廃寺となった。
明治37年、金剛照浄和上が第三十五世となり、常徳、持宝の二ヶ寺を合併し興隆を画す。昭和9年には、本堂と庫裏を再建した。 まさに華蔵寺の歴史は波乱に満ちている。
そうした時の流れを大らかなこころで包んだかのような、ここ華蔵寺の境内は静寂のみが音を立てる。
現実を離れ、遠い昔に旅をしている気分さえ味わえる、風格のある寺だ。