8番札所:南光寺(通称:笠懸不動)

8番札所:南光寺(通称:笠懸不動)

ご詠歌

笠懸の 御寺に参り 拝む身の 万の願い 叶わぬはなし

宗旨
高野山真言宗
御本尊
胎蔵界大日如来
寺宝
不動明王 / 十一面観音 / 白衣観音 / 大元帥明王 / 弘法大師 / 金胎大日 /阿弥陀如来  薬師如来 / 七福神地蔵石像 / 徳川家歴代将軍御朱印状 九通 / 修業大師像
住所
〒379-2311
群馬県みどり市笠懸町阿左美967

緑深き境内にやさしさが満ちる

上州名物のひとつ、桑畑の景観のなかを東村より桐生方面へ北上すると旧新田郡笠懸村(現みどり市笠懸町)にさしかかる。 旧新田郡は南北朝時代の名将・新田義貞ゆかりの地である。義貞は南朝(吉野)の後醍醐天皇をよく助けるも、奮戦むなしく敗死したことで名高い武将である。

笠懸地区は旧新田郡の中で静かな田園地帯として知られてきたが、近年桐生市の発展、町村合併などに伴い、市街地化が著しいと聞く。
しかし、日輪山観音院南光寺はそうした状況とは無縁の様に、あくまで静ひつ・柔和なただずまいを見せる。

開山は鎌倉時代の初期と言われている。新田氏支配の頃、大塔宮護良親王に仕えた南の御方が南光寺に住まわれたと伝わる。 親王は後醍醐天皇の第六皇子で、鎌倉幕府時代は僧兵を率いて倒幕に務め、建武の中興以後は征夷大将軍になった知略に長けた人物。 鎌倉薬師谷の御所において足利直義の為、非業の死を遂げたことで知られている。

太平記巻十三には大塔宮(護良親王)の最後の様子が以下の様に生々しく記されている。
〈去程ニ御カイシャクノ為、御前ニ候ハレケル。南ノ御方此ノ有様ヲ見奉テ、余リノ恐シサニ御身モスクミ、手足モタダデ座ツケルガ、 暫ク肝ヲ静メテ人心付ケレバ、薮ニ捨テタル御頚ヲ取挙タルニ、御膚ヘモ尚冷メズ、御目モ塞セ給ハズ…〉
南の御方の悲しみは深く、息子を生んだ後、新田家を頼りにこの阿佐美村(現笠懸町)南光寺に住まわれた。 南光比丘尼として後生を親王の菩提をとむらうことに捧げたという。

8番札所:南光寺(通称:笠懸不動)

慶長年間(1596~1614)永真大徳により中興開山、徳川の治世となった慶安二年(1648)に、将軍家光公の御朱印により領地二十一石四斗を賜わる。 高野山龍光院末中本寺の格式を得、末寺一ヶ寺を持つ。弘法大師入唐1200年事業として平成15年弘法大師尊像を安置し弘法大師堂を完成した。

南光寺のお不動様は通称笠懸不動と呼ばれ、あらゆる障難を百由旬の外に退けるとされている。
又、南光寺にはその他にも数々の尊像がある。 本尊・胎蔵界大日如来をはじめ、十一面観音、十八面三十六臂大元師明王、白衣観音、薬師如来、阿弥陀如来、金剛界大日如来、真言六観音、愛染明王等が所狭しと並ぶ様は、荘厳の一語に尽きる。

この様に、立派な由緒とたたずまいを誇る南光寺には、もうひとつ見事な自然環境という財産がある。
銀杏・桜・百日紅・五葉ツツジ・壇香梅など15種を越える樹木に、数々の野鳥が群れ飛ぶ様はひたすらに美しい。