5番札所:光徳寺(通称:成田山不動尊)

5番札所:光徳寺(通称:成田山不動尊)

ご詠歌

こうとくじの うごかずの尊 とこしえに くにの平和と じゆう護らん

宗旨
真言宗智山派
御本尊
不動明王
寺宝
旧本堂 (高崎市重文) / 水屋 / 赤みかげ灯籠 / 釈迦如来画像 / 浮世絵風不動三尊の画像
住所
〒370-0812
群馬県高崎市成田町23

大河内氏ゆかりの高崎成田山

かつては高崎城を囲む城下町として、その後は、中仙道の宿場町として栄えた高崎市も、現在は県内最大の商業都市として発展を続けている。
市街地をほんの少し離れて光徳寺がある。  山門を入り参道を進むと、朱色の本堂が、鮮やかに目に飛び込む。左に目を転じると太子堂、右には旧本堂が静かに、かつ歴史の重みを感じさせながら建つ。

旧本堂は、かつて高崎城三の丸にあった威徳寺の内陣であった。
威徳寺は、高崎城初代城主、大河内輝貞が宝永六年(1709年)に建立したと伝えられる。
輝貞は徳川五代将軍綱吉の信任をうけていた小姓のひとり。のちに、綱吉の墓前に輝貞の墓が設けられたほどの厚い信頼を受けたので、 輝貞は綱吉の死後、高崎城三の丸に寺を建立して、綱吉の位牌を祀り、高崎城の祈願所とした。これが威徳寺。

その後、明治初期の廃藩置県で威徳寺は荒廃し、損壊の危機にさらされていたため、成田山本堂として現在地に移された。 今日では、旧本堂として静かに余生を送っているかのようだ。

5番札所:光徳寺(通称:成田山不動尊)

一方、太子堂の歴史も興味深い。
江戸時代には、現在のあら町あたりに、大工町と呼ばれる大工職や職人衆のたくさん住んでいる町があり、  その中心部に、守護神として聖徳太子様が祀られていたという。その後、各職の人びとの手で、神社にて尊崇されていた。 ところが、神仏分離に遭い、聖徳太子様はその神社の境内を追われることになる。
当時の諸職人衆は大変困惑したが、宥海和尚(開山松本宥海和尚)は職人の希望を入れ、境内の堂に奉祀することを承認。 そして盛大に入仏式が行われ、聖徳太子様は光徳寺の境内に迎えられた。
太子堂にまつわるこのような歴史を知ると、おそらく見方も変わるのではないだろうか。

旧本堂と太子堂をながめながら、現実の事は何も考えずに、遠い歴史の旅に出かけてみるのも面白い。想像は無限に拡がるはずだ。 関越自動車道の高崎インターチェンジからクルマで15分、交通の便はいい。
光徳寺。数かずの歴史を秘めた、まさに高崎市民の誇りであろう。