9番札所:西慶寺(通称:新田の触不動)

9番札所:西慶寺(通称:新田の触不動)

ご詠歌

義貞を 救い護りし 明王は いまも慈愛の 眼かがやく

宗旨
高野山真言宗
御本尊
阿弥陀如来
寺宝
いぼなし鐘 / 不動明王像 / 阿弥陀如来 / 新田義貞の自画像 / 両界大曼陀羅  新田義貞公書刊 / 聖観音像 / 真言八祖画像
住所
〒373-0061
群馬県太田市烏山上町1426-1

神秘に満ちた新田の触不動

工業を中心とした産業都市として躍進めざましい太田市も、江戸時代には、例幣使街道の宿場町として栄えた。 この街道は高崎の倉賀野から日光まで続いており、現在も残っている。
徳川家康がまつられている日光東照宮に、毎年四月、天皇の代わりにお参りに行った公家を例幣使と言ったところから、この名前がつけられた。

西慶寺は、例幣使街道を少し離れた太田市郊外に金山城跡を東にのぞみ、ひっそりと建っている。
県道から脇道に入り、しばらく進むと、思いがけず真っすぐな広い道に出る。これが西慶寺の参道である。 「どの時代に参道が整ったか」との思いを中世に馳せながら歩んでみよう。

寺に着くと、紅が目にまぶしい鍾楼門がまず目を奪う。見事なほどに鮮やかである。
その鐘楼門をくぐると、正面に堂々たる風格を漂わせた間口17メートル、奥行12.6メートルの大きな本堂が建つ。 灌頂・法会を行ったため広い廊下が外陳をまわっている。そして向って左には、不動堂が誇りに満ちた“顔”を見せる。 本堂も不動堂も、見る者を圧倒する迫力を持つ。

9番札所:西慶寺(通称:新田の触不動)

西慶寺は、新田の触不動と通称されるが、その由来がおもしろい。
八幡太郎義家の孫義重が新田氏の先祖にあたることから、保元二年(1157)新田庄下司職に任命された。 そのころ、寺尾の郷に居を構え、西慶寺を鬼門になぞらえて、代々祈願寺として尊崇。それゆえに、水田を寄進した。
元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉を攻めるに際し、義兵を起こそうと企て、西慶寺の不動明王に祈願、陣鎌と鎚を奉納した。  不動明王は感応し、天狗や山伏と化し、越後の新田氏に挙兵を触れたといわれ、数百人の兵がただちに馳せ参じた。 このため、『新田の触不動』と称されている。

上州の寺院らしく、周囲に桑畑が広がる西慶寺。地域住民にも愛され、昼下がりには、前庭でゲートボールを楽しむお年寄りの姿が目につく。
静かなたたずまいを見せる境内には、身の丈六尺の水子地蔵尊が、やさしくほほえみ、花木や草花が豊富で、菩提樹の大木は近在には珍しく、紅 葉や椿をはじめ、四季おりおりの草花が参拝者をやさしく迎えてくれる事だろう。

まさに地域に根ざした、ほのぼのとした寺院といえるだろう。