26番札所:和光院(通称:田島の身代わり血不動尊)

26番札所:和光院(通称:田島の身代わり血不動尊)

ご詠歌

傅法の 錐にえにしの 不動尊 ちかい興すは 内原の里

宗旨
真言宗智山派
御本尊
延命地蔵菩薩
寺宝
血不動明王 / 立原万額 / 木村武山筆血不動明王画
住所
〒319-0301
茨城県水戸市田島町415

のどかな社の中に孤高を守る

水戸市田島町はその地名が示すとおり、田園と丘陵地帯が微妙な配置を成し、あたかも田の中の島といった趣きがある土地だ。
その緩やかな起伏を進みゆくと、遠方の杜の中より、忽然と風雅な建造物が姿をあらわす。 これが宝暦九年(1759)建立の和光院・不動堂なのだが、こうした劇的な情景こそが巡礼の醍醐味といえよう。

傅燈山和光院明楽寺の創建は、南北朝時代中期の康安元年(1361)鹿島郡神生村にて開基された。本尊は弘法大師の作と伝えられる延命地蔵菩薩。

開基後、約140年経た宥怡上人の代、水戸城主、江戸但馬守通雅が枝川の地に七十五貫文の地を寄進し援助した。(1498) この宥怡上人が和光院中興開山の祖である。 大永二年(1522)中興二世宥胤のとき、堂塔を鹿島神生より水戸城郭内海老窪の辺へ移建し(船戸山ともいう)和光院は、江戸氏の菩提寺として大いに栄えた。

降って天正十八年十二月、中興六世宥勝のとき、江戸重通(十代)は太田の佐竹義宣と不仲となり交戦、 戦い利あらずして敗れ滅亡し、和光院も佐竹のために水戸を追われた。
当初、茨城町石崎に移り、更に現在地の田島に退去したが、時の住僧宥勝上人はその後五年を費し、文禄四年(1595)和光院を再建した。 境内に屹立する直径八尺に及ぼうかという椎の巨木は、これ以前に植えられたと推定される。

26番札所:和光院(通称:田島の身代わり血不動尊)

延宝三年(1675)和光院門末帳によると、末寺四カ寺・門徒十四カ寺・末寺の門徒六カ寺で、都合二十四カ寺とあり、その規模は大きかった。 又、徳川時代の御朱印目録によれば、代々将軍家より高十五石を寺領として許されているとある。

和光院本堂に安置される不動明王画幅は、通称「血不動尊」と呼ばれる大幅である。
これは和歌山県の根来山大伝法院に安置される錐鑚不動の鮮血にて、興教大師が描いた(御真筆)赤いお不動様であることから名づけられたもの。 節分会等、大護摩修行の際は不動堂に移されている。

その不動堂には、別に木彫座像の不動明王も安置されているが、これも江戸氏の守本尊として1590年まで水戸城内にあったもので、どちらも霊験はあらたかといえる。

第二十五番札所・一乗院とは、佐竹氏を間に挟んで、因縁浅からぬものがある和光院。
今は不動尊霊場の札所として、共に人々の祈りを受ける。